09
幸村のことをヒーローだと讃え、世界一素敵だと言葉にする。その言葉に顔を赤くしながら、それでも幸村は口元に抑えきれない笑みを浮かべていた。『私、幸村先輩のおかげで手術頑張れそうです』
『俺の?』
『はい! まだ怖いけど、でもきっと大丈夫』
『……さん』
まだ怖いという言葉は本心だろう。幸村に向ける笑顔の奥に、隠しきれない恐怖が見て取れた。それでも彼女は気丈に笑顔を浮かべる。
強い子だな、と幸村は思った。
同年代の女子と比べても、体つきは弱々しい。当然力もない。でも、その小さな体の中に誰にも負けない意志の強さを持っている。
きっとは幸村がいてもいなくても手術を受けることを決心しただろうと今になって気付いた。どれだけ怖くても、きっと逃げない。恐怖に泣いて、泣いて、泣いて。それでも最終的には涙を拭って、顔を上げて、きっと前に進むのだ。
それでもの力になれたらいい。その背を押すまでもないかもしれない。支えることすら必要としていないかもしれない。だとしても、きみの後ろにいるよと伝わればいい。
が幸村を頼りにしても、しなくても、ここにいるよと。
『幸村先輩も応援してくれますか?』
『あぁ、もちろん』
幸村が深く頷くと、は笑みを深めた。そしてベッド脇の棚に置いてあった本を手に取ると、そのページをぱらぱらとめくり始める。勢いよくページが進んでいくのを見つめていると、途中でかくりとページがストップした。そこにはが宝物だと言っていたしおりが挟まっており、どうやらそれによって動きが止まったらしい。
はそのしおりを取り出すと、ページが分からなくなることを気にせずに、ぱたりと本を閉じてしまう。そしてしおりを幸村に差し出した。
『これ、幸村先輩が持っていてください』
『でも、それは……』
『大切だからこそ、お守りだからこそ、幸村先輩に持っていて欲しいです』
しおりを手に押し付けられ、幸村は思わず受け取ってしまう。幸村の手に収まったしおりは使い古されているため汚れも見えるが、それでも綺麗な状態を保っていた。がどれだけ大切にこのしおりを扱ってきたかがこれから伝わってくる。
『分かった。大切に預かっておくよ』
『お願いします。返すのは、また次に会ったときでいいですから』
『……本当はここに残りたいんだけどね』
『部長が部活サボっちゃ駄目ですよ?』
昨日幸村は負けたが、それでも容赦なく部活はある。もちろん徐々に幸村たち3年から、赤也たち2年に引き継がれていくものの、それも段階を踏んでいくという形だ。だから今日も午前中は休みで、午後は部活となっていた。
幸村としてはここに残りたいという思いが本心だ。しかしそれでは部長として部員に示しがつかないし、何よりがそれを望んでいない。だから幸村は渋々と席を立った。
『分かってる。ちゃんと部活には行くよ』
『お互い、頑張りましょうね』
『あぁ。じゃあ、また』
『はい』
幸村は席を立って、に背を向ける。しかし扉に向かって歩き始めたとき、後ろから伸びてきたの手が幸村の袖を掴んで引き止めた。幸村はその反動に驚きつつ、後ろを見やる。は眉を下げて、こちらを見上げていた。それはどこか不安そうな表情だった。
『さん?』
『……』
『……どうかした?』
幸村が優しく問いかけても、はうんともすんとも反応しなかった。それが数十秒間続いて、そしてやっとが動く。幸村を掴んでいた手がメモ用紙を引き寄せて、そこにすらすらと文字を書いた。最近は幸村も手話に慣れてきたため、筆談が行われる機会が少なくなった。故に久しぶりに見るその光景に、幸村は首をかしげる。何故わざわざ面倒な筆談を選んだのだろうかと。
は数十秒経つと言葉を書き終えたのか、ペンを置いた。メモ帳を破って切り取り、元々小さなその紙をさらに小さくするように何重にも折りたたんでいく。そしてそれを幸村に押し付けた。するとまた不思議なことに、今度は手話を始めるのだ。
『家に帰ったら読んでください』
『え?』
『絶対にここじゃ開けちゃ駄目ですよ!』
『あ、あぁ』
戸惑いながらも素直に頷いて、そのメモ帳をポケットにしまい込む。それをは見届けると満足そうに笑って、幸村に向かって手を軽く振った。
『また、幸村先輩』
『あぁ、またね。さん』
幸村が病室を去り、はふうと息を大きく吐いた。
ただ幸村と少し会話しただけ。ただそれだけなのに、今まで自分を支配していた冷たい何かが消えていった。手の震えも止まっているし、心臓も正常とまではいかないが落ち着きを取り戻している。
『幸村先輩……』
やっぱりあの人は私のヒーローだと、は深く微笑んだ。
きっとこれなら大丈夫。怖くないと言ったら嘘になる。でも、大丈夫だと言える。そのくらい、彼はに勇気を与えたから。
だから大丈夫。
は頷いて、そのときを待った。
──きっとこれが私にとって、私たちにとっての転換期。
ここからひとつ、また何かが変わっていくのだ。
***
幸村が帰宅したのは、午後7時を回る頃だった。幸村はの言ったことを律儀に守って、託されたメモ帳を早く読むために急いで部活から帰宅したのであった。
「何を書いたんだろう」
あのときのの手元はよく見えなくて、一体何が書かれているのか見当もつかない。だから幸村は自室に入ると手に持っていたラケットバッグをすぐ下に下ろして、ベッドに腰をかけた。いつもだったら汗が気になって制服から部屋着に着替えるところだが、それよりも早く彼女が自分に伝えたかったことを知りたかったのだ。
丁寧に仕舞われていたメモ帳の切れ端を取り出し、おそるおそるその紙を開いていく。徐々に文字が見え始めて、幸村は緊張しながらも紙を完全に開ききった。
そこに記されていたことは。
『音が聞こえるようになったら、幸村先輩に一つお願いしたいことがあります』
お願いしたいこと。
は欲が浅いことを、短い付き合いながらも幸村は知っている。そもそも彼女は人に何かお願いをするようなタイプの人間ではない。とても遠慮がちな性格で、そこが可愛らしくてたまらないし、なんなら自分だけに何か頼ってくれたらとか、お願いしてくれたらとか、そんなことを幸村は思っていた。
だから余計に驚きだ。その幸村の思いが叶いそうなのだから。
そんな遠慮がちな彼女が自分に何をお願いしたいのか。考えてみても分からなくて、でもこの紙にそれ以上は書かれていなかった。
つまり幸村は次にに会う日まで、胸に抱いたどきどきを持ち続けなければいけないということだ。
大きくため息をついて、幸村はベッドに勢いよく倒れこむ。幸村はただ白い天井をぼーっと見つめていた。着替えなければと分かっている。それでも何故か動く気になれなかった。
もうきっとの手術は終わっている。まだ麻酔で意識が戻っていないかもしれないが、それでも今日この日から彼女の生きる世界が変わるのだ。
その世界にどうか自分が入り込めるようにと幸村は願って、そしてゆっくりと瞳を閉じた。
結び目からの便りはそれでおしまい
正直連載が長引く予感もしていたのですが、この調子なら今年中に一先ず完結できそうな気がしてきました。
(2020.11.14)
(2020.11.14)