08
『さん』幸村の姿に、ひどく安堵を覚えた。それだけ自分が幸村に対して、心を砕いていたことを改めて知って、は瞳を細める。その瞳に何を感じたのか、幸村は少し困ったように笑って、のベッドの横に添えられた椅子に腰を下ろした。
『お久しぶりですね、先輩』
『うん、そうだね』
最後に2人が顔を合わせたのは、1ヶ月前。が幸村の後押しを受けて、手術を受けると決心した日以来だ。あれ以降、幸村は多忙での病室に顔を出すことはなかった。
は知っている。
幸村が血反吐を吐く辛さに耐えて、リハビリに励んでいたことを。
偶然、見てしまったのだ。リハビリステーションで大量の汗を垂らしながら、思い通りに動かない体に顔をしかめながら、それでも決して止まることなく、必死に足を動かしていた幸村の姿を。
『幸村先輩、リハビリ大変そうでしたから』
『……うん』
『?』
どうも幸村の歯切れが悪い。どこか居心地が悪そうに、から目をそらした。こんな幸村は珍しい。いつも幸村はを真っ直ぐに見つめてくれるというのに。
そこでの疑問に答えるように、幸村は手を動かした。
『勝つためにリハビリをしていたんだけどね。負けてしまったから』
それは昨日のことだ。
全国大会決勝戦で幸村は負けた。あってはならない敗北だった。
『きみに優勝するって誓ったんだけどね』
『……』
『かっこわるいね』
自嘲気味に笑い言葉を零した幸村に、しかしは首を振った。
『そんなことないです』
そんなことない。
確かに幸村は負けた。でも、にとってはそんなこと関係ないのだ。もちろんスポーツをやる者たちにとって、勝敗はとても大切な結果だということは理解している。それに固執している人もいるし、勝利することによって賞金を得てそれを仕事としている者だっている。
決して、軽視してはいけない。それが勝負の世界における、勝敗というものであり。
幸村が拘っているものだということを、は理解しているつもりだ。
それでもにとっては、その結果は些細なものだった。
幸村が決勝戦でラケットを振っているとき。
そのとき、確かに幸村はにとってたった1人のヒーローだった。
誰よりも自分に勇気をくれた人だった。
幸村が勝っても負けても、にとっては何1つ変わることのない事実。
本当だったら、この声が出たら、大きな声であなたがどれだけ自分に勇気を与えてくれたのかを伝えたかった。あなたの姿を見て、どれだけ心強かったのかを教えたかった。自分にとって幸村がどれだけ大きな存在で、どれだけ頼りになる人なのかを話したかった。
だが、にはまだそれができないから。
だから、いつの間にか力が抜けていたの手をいまだに握ってくれている彼の手を強く握り返すのだ。
『栗山さん?』
幸村がの名前を呼んだのを彼の口の動きから察しながら、そこで自分が幸村の手を握っていることにより手話ができないことに気付いた。大きな手から手を離しても良かったが、何となくそれは嫌に思い、はわかりやすいように口を大きく開いて、ゆっくりと動かした。
『かっ、こ、よ、かっ、た、で、す』
今が幸村に抱いている、単純明快な思いだった。チームの勝利のために、に勇気を届けるためにラケットを振ってボールを追いかけていた幸村は誰よりも輝いていて、誰よりも素敵だった。
たとえ幸村がそれを認めてくれなくても、少なくともにとってはヒーローだったから。
『……栗山さん』
しっかりと伝わるかどうか心配だったが、どうやらの言葉は幸村に伝わったようで。幸村はそんなの言葉を受けて、困ったように笑う。
幸村にとってはあの試合は勝たなければならなかったから当然だ。そんな簡単に気持ちが晴れるわけがない。それがたとえからの言葉でも、素直に受け取るには時間がかかる。
それでもの言葉は幸村にとって救いだったのかもしれない。
「惜しかった」でも、「残念だね」でもない。敗北した幸村に周囲の人々がかけた言葉とは違う、の言葉。結果なんて知らないというように、ただ幸村がテニスをしている姿が素敵だったのだと伝える言葉。
まるで全てが認めてもらえたように感じた。
結果とか、その他全てのことを度外視して。
ただ、それでいいんだよと言われた気がした。昨日からずっと苦しかった呼吸が、楽になった気がした。
だからだと思う。幸村が、敗北して初めて純粋に笑みを浮かべることができたのは。
『ありがとう』
きゅうとの胸が締め付けられる。それに気付かないふりをしつつ、は幸村から手を離す。
『素敵でした、幸村先輩。すごくかっこよくて、先輩は私にとってのヒーローです』
『ヒーロー?』
『はい。幸村先輩はいつも私に力をくれるから。だから』
『大袈裟だよ』
『大袈裟じゃないです。誰が何と言っても、幸村先輩は世界一かっこよくて、世界一強い人です』
『……』
『世界一素敵な人です』
このとき、は幸村に自分の抱いた思いを伝えることに精一杯だったため気付いていなかったのだ。
自分がどれだけ大胆なことを言っているか。どれだけ幸村の心を揺り動かしているか。どれだけ幸村を追い詰めているか。自分が今、一体どんな顔をしているか。幸村がそれを見て、何を思っているのか。
幸村は次々と幸村を讃える言葉を口にするに顔を赤くするが、当然伝えることに夢中で幸村の顔を見ていないは気付かない。もう勘弁してくれという頃には、幸村の心はぐちゃぐちゃにかき乱されていた。
胸はどくどくと音を立てているし、情けないことに今すぐここから逃げ出したいと思ってしまったほどだった。
それでも不思議なことに、ここで息をするのはやはり楽だった。
いいんだよと呼吸を促す
本当だったらここまでに書かなきゃいけないことをメモってたのに、それを書くのを忘れて焦っております。このままだと話に書けないから、完結したあとに番外編で書こうかななんて思ってる。
(2020.11.07)
(2020.11.07)