06
手術後、幸村は退院していった。結局、は自分に手術の話が持ち上がっているということを幸村に伝えることはできなかった。
そもそもどこまで行っても2人は他人なのだ。偶然、この病院で出会っただけ。本来だったら、同じ学校に通っていても、天と地の差がある2人だ。幸村はこの学校の人気者。逆には音が聞こえない。全く違う2人だ。
自分たちが正反対であるということに気付いたは、同時に気付いてしまったのだ。
己が幸村に特別な感情を抱いていることを。
だが、気付いたって何かが変わるわけではない。どうせこの気持ちを伝えることはないのだから。
そもそももう会話をする機会もないかもしれない。同じ学校であっても、大人数が通う立海大付属中では関わりを持つ方が難しい。
しかしそんなの考えは、すぐに打ち砕かれることになる。
***
いつもの通り病院のフリースペースで本を読み進めていたの視界に、手が差し出された。ふらふらと目の前で揺れて、は驚きつつも視線を上げる。
すると、そこにはにこやかに笑う幸村がいた。差し出した手とは反対の手には、色鮮やかな花束が抱えられている。
『幸村、先輩?』
『こんにちは、さん』
『どうして?』
どうしてここに、というの疑問を予想していたのか、幸村は少しむっとしたように答えた。
『退院したと言っても、リハビリはあるからね。途中経過も報告しないといけないし』
確かに考えてみればその通りである。
幸村は難病により入院をして、それを克服するために手術をしたのだ。退院して、はい終わりというわけにはいかないのだろう。
『先輩が退院した日ぶりですね』
『そうだね』
幸村は頷くと、の座っていた向かい側に腰をかけた。
『? もう診察は済んだんですか?』
『あぁ、あとは帰るだけだよ』
『?』
ではなぜ幸村はここにいるのか。
幸村はの瞳をじっと射抜いた。
『先輩?』
『さん。この前言ったこと覚えてる?』
『この前?』
幸村に何を言われただろうかと、幸村との会話を思い出してみる。しかし何が正解なのか分からず、思わず首を傾げた。そんなに少し呆れたように笑って、でもどこか真剣に幸村は口を開く。その温度に気付いて、はぐっと背筋を伸ばした。
『何かあったら俺が相談に乗るって言ったよね?』
幸村にそう言われて、やっとは思い出す。
幸村が手術に成功した日、幸村のクラスメイトたちがやってきたせいで会話がストップされたが、確かに自分たちはそんな会話をしていたような気がする。
正直社交辞令だと思っていたのだが、幸村がしっかりと覚えていたこと、初めて見たこちらを貫く真剣な瞳に、思っていたよりも幸村が自分のことを気にかけてくれていることに胸が熱くなった。それでも心配をかけないように、は首を横に振った。
『私は何もないですよ。心配事もないです』
『それは本当?』
じっとこちらを見つめる瞳は、何もかもを見透かすようなものだった。ぐっと息を飲んで、それでも言えないとは思った。言ってしまったら、その不安が本物になってしまう気がして。
『さん。あのとき言ってくれたよね。みんなが俺のそばにいるから、不安にならないでって』
それはさんも同じだよ。
年上らしく、優しく諭されるように言われて、言わないと決めていたの心が揺れ動く。
『さん』
幸村が、を呼ぶ。それはには聞こえない。それでも口の動きで、自分の名が紡がれたことを悟る。
瞳が交錯して、気付けばぽつりと言葉がこぼれていた。
『耳の症状が急激に悪化していて、……それで、手術が決まったんです』
『!』
『でも、いざ自分が手術となると、怖くなって……』
両方の耳が重度の感音性難聴であるの場合、人口内耳の装用のための手術が行われる。
人工内耳は、インプラントと呼ばれる機械を手術で側頭部に埋め込み、そのインプラントから伸びた電極を内耳に挿入する手術である。損傷を受けた内耳に代わって、聴神経を直接刺激して音を伝えることにより、音を電気信号に変換して、より自然な聴こえに近づける仕組みだ。
当然手術は耳を弄ることになるし、それだけ恐怖心を煽る。
『幸村先輩にはあんなこと言ったのに、やっぱり怖いんです』
そう言って俯いてしまったを見つめて、幸村は手を伸ばして彼女の頰にその手を添え、そっと顔を上げさせた。戸惑いの色を隠さないその表情に優しく微笑む。
『怖くて当然だよ。自分の体にメスを入れるんだ。怖くないわけがない』
『……先輩』
普段はテニスラケットを握るその手がゆっくりとの頰を撫ぜた。
『俺だって怖かった。でもさんがああ言ってくれたから、少しだけど怖さも薄まったんだ』
本当は怖くてたまらなかったんだよ。
そう言った幸村は己の手をそっとの頭に乗せた。まるで赤子をあやすかのように何度も優しく撫でていく。
は頭を撫でられるほど子供ではないと思ったけれど、その手の動きが心地よくて、何も指摘することができなかった。
『さん、提案があるんだけど』
『提案?』
首をかしげるを見て、幸村は続けた。
『全国大会で俺たちは勝つ。青学にも今度こそ』
『……』
『必ず俺たちは三連覇を果たしてみせる』
それが自分に何の関係があるのかとは思ったが、幸村の言葉には続きがあった。
『だから、一緒に頑張ろう』
『!』
『大丈夫。俺の思いはきみのそばにいるよ』
思いはそばにいる。
それはが幸村に言った言葉だ。それを今、幸村がに贈る。
少しでもそれが、きみの力になるのならと。
きみの力になれるなら
感音性難聴についてですが、専門的な知識はありませんので、何か間違っていても見逃してくださると助かります。
(2020.10.20)
(2020.10.20)