ドリーム小説

叶わない幻想を抱いて

05

 は生まれつき重度の感音性難聴であった。
 感音性難聴とは、耳の内耳と呼ばれる器官や、神経に起こる障害が原因の難聴のことであり、感音器と呼ばれる部分に起こる障害である。
 先天性と後天性の原因があるが、の場合は先天性である。出生時から耳に難聴が生じているは、胎児期の発達異常による難聴だと診断されていた。
 聞き取れる音はその人の症状によって様々だが、は重度の難聴であるため、補聴器をつけても音はほとんど聞き取ることはできなかった。そのため普段から彼女は補聴器はつけず、人の口の動きから言葉を読み取り、筆談をし、ときによっては手話を使用して他者との会話を可能にしていた。
 今まで不自由はあったが、それなりに幸せに生きてきただったが、このところ難聴の症状が悪化し、その検査のために入院することになったのだった。


     ***



『幸村先輩、手術成功おめでとうございます』

 は手術が成功したばかりの幸村の病室を訪れていた。幸村は麻酔によって先程まで眠っていたのだが、今は体の気だるさが残るものの、意識ははっきりとしている。
 自分のことのように喜び、笑顔を見せるに微笑を浮かべる。

『ありがとう、さん』

 手術が成功したことに心を落ち着けた幸村だが、それ以上に気がかりなことがあった。
 それは立海大付属中テニス部の関東大会決勝戦の結果である。
 絶対王者であるはずの立海大付属は、なんとこの決勝で青春学園に敗れた。幸村を支える副部長の真田さえも、青学のルーキーに敗北したという。
 その結果を幸村に伝えた真田は歯を食いしばり、拳を握りしめていた。王者としての誇りが敗北を許さなかった。
 今度こそ、全国大会ではこの雪辱を必ず果たしてみせる。
 全国大会で幸村本人がそれを成し遂げてみせると、今から幸村は闘志をみなぎらせていた。

『これで部活に戻れますね』
『あぁ、全国大会に俺も出るつもりだ』
『大会、応援していますね』

 幸村先輩、かっこいいんだろうなあ。
 王者の重責を課そうとしない、どこか緩いの言葉に幸村はおもわず笑ってしまった。無意識的に体に入っていた力が抜けていくのを感じる。
 今までずっと立海大付属の部長として、常に幸村にはその誇りと重責がのしかかっていた。だがなまえと関わるようになって、と話すようになって、彼女と笑い合っている時間だけは何もかも忘れて、ただの幸村精市という1人の男として自然体でいられるのであった。それを本人には言ったことはないが、それはきっとも同じだと思っている。
 そして、この胸に潜む想いも同じであればいいと思っていた。

『……』
さん?』

 の手話を紡いでいた手が止まってしまい、幸村はどうしたのかと首をかしげる。俯いた彼女の顔を覗き込むと、その顔はどこか怯えたような表情を浮かべていた。

さん?』

 は幸村に気付いて、取り繕うように笑顔を浮かべた。だが、その笑みはどこかぎこちない。何かを隠していることは明白だった。

『何かあった?』
『……』
『俺でよければ聞くよ?』

 そう言った幸村を見上げて、はぐっと唇を噛んだ。幸村に話せば、決心がつくだろうか。
 そう思い、手を動かそうとしてとき、病室の扉が勢いよく開かれた。「幸村!」と大きな声で呼びかけてきたのは、幸村のクラスメイトだ。男女共に訪れてきた様子から、幸村がクラスメイトから慕われていることがよくわかる。幸村の手術が無事成功したと聞きつけて、お見舞いにやってきたのだろう。幸村が「静かにしなよ」と咎めると、「悪りぃ」と謝ってから幸村が横たわるベッドに近づいてきた。
 幸村のそばに座るに気付いて、わかりやすいように口を大きく動かす。

『お、さん。ひさしぶり』
ちゃん、こんにちは~』
『お久しぶりです、先輩方』

 このあと、幸村とそのクラスメイトたちは楽しそうに会話を続けていた。もその場に居続けてはいたが、やはりその声を聞き取ることはできなかった。
 幸村が女生徒と話す度、何度も羨ましいと思ってしまう自分に嫌気がさした。
 自分の耳はどうにもならない。音が聞こえない。人の声が分からない。
 当然、幸村の声も聞こえないし、その声で自分の名前を呼んでもらっても、それは分からないのだ。
 何度も想像した。
 幸村の声はどんなものなのだろうと。きっと、幸村のことだからとても美しい音を持っているのだろう。
 だから、その美しい声で自分だけの名前を呼んでほしかった。その声を、自分の名前を呼ぶ声を聞きたかった。
 そうやって叶うことのない幻想を抱いている。
 この耳を治すための話が最近持ち上がってはいるが、それはどうしても勇気が出なかった。幸村にはあんなことを言っておいて、自分は怖いのだ。なんて情けない。笑われてしまう。

──私もあなたの声が聞きたい。
──あなたの声で、私の名前を呼んでもらいたい。
──その音をこの耳で聞きたい。

それがたとえ叶わない夢だとしても、は幻想を抱き続ける。


叶わない幻想を抱いて

昔は短編より連載の方が書ける人間だったのですが、今はその逆になってしまっていて参っています。
(2020.10.17)
⬆︎⬆︎⬆︎
よろしければ、拍手お願いします。創作の力になります。