13
の願いは、焦がれ続けていた想いは、幸村に出会ったときから何一つ変わっていない。ただ、幸村のその声で名前を呼んでほしい。
その声を聴かせてほしい。
幸村がクラスメイトと楽しそうに会話をして、笑顔を浮かべているとき。その横顔を見つめて、ただはそう願っていたのだ。
しかし幸村にとってその願いは予想外で、そして願いとも言わないものだった。
幸村も彼女の名を呼びたいと思っていたから。
「ちゃん」
幸村が自分の願いを拒否することはないだろうと思っていた。
同時に、きっとひどく優しい声音で名前を呼んでくれるのだろうとも予想していた。
だが、だからこそ、そんなに愛しいという表情でこちらを見つめて、とろけるほどに甘い声音で自分の名前を呼ばれるとはは思っていなかったのだ。
ひどく優しくて、甘い音に、の脳は麻痺を起こす。音が聞こえるようになって以来、様々な音をこの耳で受け止めてきた。それでもこんな音は聞いたことがない。知らない。知らないから、どうやって受け止めればいいのかが分からない。どうして幸村がそんな風に名前を呼んでくれるのかさえ分からない。
分からなくて、の脳は鈍く動きつつ、そして一つの信号を出す。麻痺しきった脳が命令できたのは、単調すぎる、しかし感情を真っ直ぐに表すそれだけだった。
「え……」
その声を漏らしたのは、か幸村か。恐らく両方から漏れた声だったのだろう。も幸村も、今のこの状況に一瞬反応が遅れた。
ぽろぽろと涙を流したは、幸村の服の袖をきゅっと掴んで、「もう一回」と小声で強請る。それが幸村にとって初めて聞いたの声だったが、それを指摘することなく、幸村はもう一度の名を口にした。
するとさらにぼろぼろと涙を溢し始めてしまったに幸村は困惑する。の涙は止まることを知らないのか、布団を少しずつ濡らしていく。の手が目元を擦ろうとしたため、幸村はその手をそっと取った。
「跡になるからだめだよ」
ポケットからハンカチを取り出して、そっと涙が溜まっている目尻に沿って拭いてやる。が一つ瞬きをした反動で、ぽろりと大きな粒が溢れ落ちた。頰を濡らしたそれも拭ってやるとの涙はようやっと止まった。
「大丈夫?」
聞かれるまでもない。が涙したのは体が痛かったからでも、苦しかったからでもない。
涙は悲しいときだけではなく、嬉しいときにも溢れてくる。それはが初めてこの世の音を聞いたときに証明済みであった。
ずっとずっと焦がれていた幸村の声を与えられて、その声で自分の名を紡いでもらって、は嬉しいと涙したのだ。それを何とか幸村に伝えたくて、でも今声を出したらただでさえ安定しない声がさらに不安定になってしまうと分かっていたから、は今まで幸村とそうしてきたように手話を用いてその感情を伝えた。
から嬉しいと伝えられた幸村は、彼女の笑顔を見て息を呑む。は分かっているのだろうか。自分が一体どんな顔をしているのかを。嬉しいというその表情を見ると、少し調子に乗ってしまいそうになる。幸村はのことが好きだが、はそうではないだろう。しかし、都合よく勘違いしたくなるのだ。
勘違いしてはいけないと分かっているものの、それでも幸村は少し調子に乗った。のお願いをきくという約束は果たされ、そして幸村も同じくに「お願い事」をしたくなってきたのだ。
「ちゃん、俺も呼んでほしいな」
「?」
「俺のこと、呼んでほしい」
その声で。紡がれることのなかったその言葉は、しかししっかりとに伝わった。
幸村はまだ全くといっていいほどの声を耳にしていない。先程少しだけ聞いたものの、どうやら意識して声を出さないようにしているようで、なかなかは話してくれない。今日幸村はの願いを叶えにこの病室にやってきた。同時にの声を聴きにやってきたのだ。だからどうかその声を聴かせてほしかった。
しかしはふるふると頭を横に振って、嫌だ嫌だとまるで駄々を捏ねる幼い子供のように幸村のその要求を拒否した。まさか拒否されるとは思っていなかった幸村は「え!?」と声を上げて、首をかしげる。
「ど、どうして? やっぱり調子悪い?」
頭を左右に振り続けていたはさらにぶんぶんと振って、その言葉を否定する。調子が悪いことが理由ではないと分かって一つ安心したが、また一つ疑問が湧いてくる。
何故こんなにもは幸村の要求を拒否するのだろうか。そこに何か理由があるのだろうか。それともただ単に幸村のことを呼びたくないのか。しかし、それはそれでショックを受けてしまう。好きな女子から「あなたのことなんて呼びたくありません」なんて言われたら、正直神の子でも立ち上がれない。
「えっと、……そんなに嫌かな、俺のこと呼ぶの」
先ほどからずっと頭を振る仕草を止めないに参ってしまって、幸村は情けない声を漏らした。するとそんな幸村の言葉に反応したがかつてないほどに激しくそれを否定した。そして再び手話を使ってその思いを幸村に伝える。
「は、ず、か、し、い、……恥ずかしい?」
幸村に改めて言葉にされたことにより、の羞恥は限界を達した。ただでさえ自分のわがままをきいて名前を呼んでもらったことで、嬉しさと恥ずかしさという二つの感情が自身を襲っていたのだから、それもそのはずである。
は布団を頭の上まで勢いよく引き上げて潜り込むことにより、真っ赤に染まったその顔を幸村の視線から隠した。
しかし当の幸村は正直それどころではなかった。運動部にしてはひどく白いその肌はと同じように赤く染まり、その顔を覆い隠すように手を当てた。だが隠されていない耳すらも紅潮しているため、幸村が赤顔していることは誰の目から見ても一目瞭然である。幸村はまさかにそんな反応をされるとは思わなかったのだ。拒否されるにしても、「恥ずかしい」なんて理由だとは考えてもいなかった。先ほどの笑顔といい、目の前の少女は随分と幸村の感情を掻き乱し、そして勘違いさせるような思わせぶりな反応をする。
に感情を振り回されてばかりの幸村だが、これだと少々面白くない。自分ばかりが振り回されるというのは神の子にとってはかなり屈辱的なことである。だから幸村は勿論有り得ないと思いつつ、自分の心を落ち着けるために、そして自分も冗談のつもりでその言葉を紡いだのだ。
「そんなに照れるのは、俺のことが好きだから?」
だから、まさか布団の中に隠れたの体が大きくびくりと動くなんて思いもしなかった。
まさかそろそろと目元までゆっくり布団の中から出てきたの顔が、先程よりも紅潮しているなどとは夢にも考えていなかったのだ。
きみに紅潮
年下に振り回される年上っていいですよね。
(2020.11.29)
(2020.11.29)