ドリーム小説

音が降ってくる

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 の手術が無事成功し、彼女は少しずつではあるが、音を取り戻していった。
 人工内耳の装用手術が成功しても、それは音を取り戻すためのスタート地点でしかない。一番重要なのは、手術以降の本人の努力である。実際、人工内耳手術において患者本人に何度も手術後の継続的なリハビリへの積極性と家族の支援を確認される。
 手術直後から音が完全に聞こえるわけではない。すぐに健聴者のように聞き取れるわけではなく、場所によっては聞こえないときもある。音が聞こえるようになると言っても、それは機械によって合成された音であり、まだまだ自然な音には程遠いのだ。故にリハビリを継続的に行い、少しずつ様々な種類の音を聞き取れるようにしていくのだ。
 それが人の言葉であれば尚更だ。そもそも人の言葉を聞いたことがないのだから、例えば誰かが「あ」と口にしても、それがにとっては「あ」だと捉えることはできない。筆談で文字にしてきた「あ」と、本当の「あ」という音を結びあわせていく必要があり、それが長いリハビリによって行われるのだ。そしてその長いリハビリを経て、ようやっと人の言葉を理解することができる。そこから聴覚だけでなく、知らない言語という概念を取り入れていき、しっかりと発音できるように訓練する必要もあるのだから、人が思っているよりも人工内耳手術、そしてその後の経過は壮絶なものなのだ。
 は先天性難聴であり、後天性難聴以上に聴覚・言語獲得のためのリハビリを行わなければならない。そのきついリハビリを耐えきることができるかはやはり本人の強い意志なのだ。

 そしてはすでにリハビリを開始していた。
 手術後目を覚まし、そこに一番早く駆けつけたのはの両親だった。にとって知らない音を発音する両親は、どうやら「!」と彼女の名前を紡いだようだった。それが自分の名前の響きであるということを何度も名前を呼ばれたことによって理解し、故にが初めて覚えた言葉は自分の名前であった。
 人工内耳から伝わる音は最初はまるで雑音のような音だ。実際、起きた直後に聞いたカラスの鳴き声はにとって不快なものでしかなかった。音入れを済ましたあと、人工内耳のプログラムを調整しながら、音の聞き取りの練習をしていく。それが人工内耳装用者にとってのリハビリである。

「あ、あーっ」

 そして、手術から約1ヶ月程経った頃。は単発の音であれば、ぎこちないながらも発音できるようになっていた。これは比較的早い方で、が今まで読唇術を使い、それぞれの音の発音の際の口の形をすでに理解しきっていたがために行えたことでもあった。

さんは発音できるようになるのが本当に早かったわね、すごいじゃない」

 を担当している言語聴覚士の女性はそう言って笑う。きっとの驚異的な成長が自分のことのように嬉しくて仕方ないのだろう。
 いつも優しく接してくれるその人物の言葉には微笑を浮かべる。スラスラと話すことはできなくても、他人が話している言葉は随分と理解できるようになった。この女性はさらに聞き取りやすいようにゆっくりと話してくれるため、基本全ての言葉が聞き取れていた。

「あーぃ、が、とぉー、」

 伝えたい言葉は「ありがとうございます」だったのだが、そこまで言って口が疲れてしまい、それ以降の音が紡がれることはなかった。それを見て言語聴覚士の女性は今日のリハビリはここまでと判断して、本日のリハビリは終了となる。
 リハビリステーションから自身の病室に戻り、は先日の続きである本を読み進めていた。
 いつもそこに挟まれているしおりは、いまだない。
 幸村と最後に会ってから、1ヶ月以上経っていた。
 正直幸村が忙しくても1週間ほどで顔をあわせることができるだろうと予想していたにとって今のこの状況は想定外であり、何かあったのかと確認したくても自分には幸村と連絡を取る手段がなかった。そのときになって彼の連絡先を知らないことに気づいたのだから、随分と呑気なものである。
 会いたいと思っても、には何もできない。ただ幸村がここにやってくることを待つだけしかなくて、それが歯痒く感じられた。

(会いたいな……)

 幸村に会いたい。会って、あの微笑みを見せてほしい。頭を撫でてほしい。
 ──その声が、聞きたい。

 は幸村の姿を思い浮かべながら、重くなってきた瞼に逆らうことなく、それをそっと閉じるのだった。










 優しい手つきの掌がそっと頭を撫でてくれている感触に意識をうっすらとだが浮上させていく。まだはっきりと覚醒しきれていない脳は、それが一体何なのかを理解できていなかった。
 ただ優しく頭を撫でられて、それが心地よかった。気持ちよくて、思わず口元に笑みが浮かぶ。それに気付いたの頭を撫でていた当の本人はくすりとに気づかれないように笑う。それでもまだ起きないを見つめる瞳も、その手と同じくらい、いやそれ以上にひどく優しかった。

「ん……」

 2分程撫でられ続け、そこでようやくは意識を覚醒させた。ぱちぱちと瞳を瞬かせて、そうして自分が誰かに撫でられていることに気づく。横を見ると、藍色の瞳を丸くさせた幸村がいた。はその幸村の姿を認めて、意識することなく笑顔を溢れさせる。
 幸村はのその笑顔に思わず息を呑んだ。

「ひさしぶり」

 初めて耳にする、幸村の音だ。
 ずっと聞きたいと願っていた音。
 ずっと欲しいと、そう焦がれていた音が。

さん」

 今、幸村から降ってくる。


音が降ってくる

以前も言いましたが、感音性難聴について、そして人工内耳装用手術およびその後のリハビリについてはかなり適当です。一応調べはしましたが、まず前のページで人工内耳をつけた日に音が聞き取れているような表現がありますが、普通はあり得ません。本来であれば音入れをするのは手術から10日ほど経った後であり、それまではまだ聞こえない状態です。前ページはそれを調べる前に書いてしまったので、そこが矛盾してしまっています。もしも当事者や関係者のかたがいて、そしてこの作品の表現を不快に思う場合は本当に申し訳ありません。あくまでフィクションとして捉えてくださることを改めてお願いいたします。
(2020.11.21)
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