冷たい手でもいいよ
「そんなに緊張しなくてもいいんだよ」
「っ」
がちがちに固まった私の体をほぐすように私の肩に手を置いて、赤司くんは座るようにゆっくりと促す。それに従い大人しくソファに腰をかけた。部屋にある内線を使って誰かと会話し始めた赤司くんをじっと見つめていると、その視線に気がついた彼がこちらを向いて、ばちりと視線が絡まる。ばっと逸らしたものの、赤司くんのくすくすという笑いが漏れてきていたので、見つめていたことはしっかりとバレているようだった。
さて、私がどうしてここまで緊張しているかというと答えは簡単である。
「自分の家のように思ってくれていいよ」
「そ、それは無理です……」
「オレたちは婚約しているんだから、オレの家はきみの家だと思うが」
「ちょっと考えが飛躍しすぎじゃないかな!」
そう。ここは赤司征十郎の自宅。正確には、京都にある赤司家の別宅である。そして私が通された部屋は、紛れもなく婚約者である赤司くんの私室であった。
今日は赤司くんの誕生日。WCを三日後に控えた部活がお昼過ぎに終わり、私は赤司くんの別宅にお呼ばれされたのだった。ちょうど赤司くんの誕生日プレゼントとクリスマスプレゼントを渡したいと思っていたから都合がいいと思っていた。
それがまさかの赤司くんの部屋に、赤司くんと二人っきり。これで緊張するなと言われても、しない方がおかしい。
ぐるぐると考え込んでいた私の目の前に、こつりと音を立ててソーサーが置かれる。続いてそこにココアが入ったカップが乗せられた。どうやら私が混乱している間に内線で呼ばれたお手伝いさんが持ってきていたようだ。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして。ココアでよかったか?」
「う、うん。大丈夫」
上品なカップを両手で包み込むように持ち、ふぅふぅと息で少し冷ましてから口をつける。ごくりと飲み込むと、体の奥からじんわりと温まっていくのを感じた。
ぎし、という音と共に、赤司くんが私の隣に腰をかけた。手にはコーヒーが入ったカップが一つ。
「コーヒーって美味しい?」
「ん? あぁ、オレは好きだよ。はあまり飲まないよね」
「うん、苦いのあんまり好きじゃないな」
「ふふ」
私の言葉にくすりと声を漏らす赤司くんにむっとする。
「子供っぽい?」
「いや、可愛らしくて好きだよ」
「もう、またそうやってっ!」
「本当のことを言ったまでだよ」
赤司くんの「かわいい」は私に途轍もない威力をもたらす。それを赤司くんは理解していて、だからこそそれをよく口にする。
「まぁ、オレはどんなのことも好きだけど」
平然として言ってしまう赤司くんに、もはや感心する。恥ずかしげもないその姿を見て、赤面ばかりしている私の方がおかしいのではないかと疑問に思ってしまうくらいだ。
それにしても今日の赤司くんはいつも以上に。
「赤司くん、今日はいつもよりテンション高い?」
「……何故そう思う?」
「普段と比べて口数が多いから、かな?」
赤司くんは決して無口というタイプではない。けれど、おしゃべりというわけでもないのだ。そして今日の赤司くんを彼のことを全く知らない人が見たら、どこが口数が多いのだと思うかもしれない。でも彼と約三年間、特に今年は濃密な時間を過ごした私には分かった。今日の彼はいつもよりおしゃべりだと。
「……自分でも少し気分が高揚しているとは感じていたんだが、まさかに勘づかれるほどだとは思わなかったな」
「何かいいことでもあったの?」
いつも冷静で、自分の感情をうまく制御することができる赤司くんには珍しい感情の起伏だった。
だからきっと何かいいことがあったのだろうと見当をつけて問うてみると、赤司くんはぽかんとした表情をしたあと、少し困ったように眉を下げた。
「きみは本当に鈍感だね」
「なっ! 私のこと、貶してる?」
「まさか」
仕方ないなというように笑みをこぼす赤司くんに首をかしげる。すると、赤司くんはもとより隣に座っていたため近かった私たち二人の距離をさらに近づけた。赤司くんがこちらに寄った動きによって、ぎしり、とソファが音を立てる。至近距離にある赤い瞳を見つめ返した。
「可愛い恋人を初めて自室に招いたんだ。これで浮かれない男がいると思うか?」
赤司くんの直球のその言葉は、ここが男の人の部屋だと、赤司くんの部屋だと意識しないようにしていた私の努力を呆気なく無にしてしまう。改めてそれを実感させられた私は自分でもわかるほどにかぁっと顔を赤く染め上げた。
「ただでさえの気持ちを聞けて浮かれていたんだよ」
「……赤司くんでも浮かれたりするの?」
「するに決まっているだろう? 想い人から好きだと告げてもらったのだからな」
先週、私たちはお出かけ、所謂デートなるものをした。気になっていたカフェでブランチをしたり、ショッピングをしたり。最後には赤司くんに連れられて、イルミネーションの穴場スポットに訪れた。
そして、そこで。私は赤司くんに秘め続けてきた自分の想いを告げた。
半年も彼を待たせてしまった。赤司くんの想いを受け取って、そこで初めて自分はこの人のことが好きなのかもしれないと自覚した。自覚、させられてしまった。それはあまりにも突然なことで、私は赤司くんの優しさに甘えてばかりで。
でも、やっと、赤司くんに「好き」だと告げることができたのだ。誕生日に告白するという計画は無駄になってしまったが、それでも私の想いを聞いて嬉しそうに笑った赤司くんの顔を見たら、そんなことどうでもよくなってしまった私がいた。
「赤司くんの浮かれた姿、見れて嬉しい」
「え?」
「普段はあんまりそんな顔見ないから」
私の言葉に少し驚いたような顔をした赤司くんは、しかしすぐに私によく見せてくれる穏やかな微笑を向けた。そして緊張してスカートをぎゅっと握っていた私の手の上に自分のそれを重ねる。
「これから長い時間、共にいるんだ。もっと沢山のオレを知れるよ」
「……赤司くん」
「それにオレも、まだ知らないのことを知りたい」
「私はそんなに出来た人間ではないから、幻滅するかもしれないよ?」
「好きな人のことは、全て知っておきたいんだ。それにどんなの一面を知ったって、オレはきみを愛せる自信があるよ」
重なった赤司くんの手に力が込められる。スカートから手を離すように言外に促されて、私はスカートを強く握りしめていた手を解いた。そこにするりと赤司くんの手が滑り込んでくる。
「それくらい、オレはきみに惚れてるんだ」
赤司くんはストレートに私のことを好きだと言う。それは赤司くんの瞳も物語っていることだから、疑ったことなど一度もない。
それでもやはりどうして赤司くんが私を、と思ってこともあるのだ。完璧な赤司くんに私は相応しいのかとか、もっとお似合いの人がいるのではないかとか。そうやって不安になる度に、赤司くんはその真っ直ぐな言葉で私の不安を消し去ってしまう。
この真っ直ぐな赤司くんの言葉が、私は好きだ。疑う余地もないほど真っ直ぐで、痛いほどの想いを私に与えてくれるから。
「私も赤司くんのことをもっと知りたいし、私のことを赤司くんに知ってほしい」
私たちはまだ始まったばかりだ。半年前に婚約して、一週間前にやっと私が彼の想いに応えて。そこからようやく始まった気がする。
だからまだ互いのことをよく知らない。赤司くんは私のとある一面だけを見て私のことを好きになって、同じように私も赤司くんのとある一面だけを見て彼のことを好きになった。もしかしたら自分に都合のいい部分しか見えていなかったかもしれない。
それでも、私たちはこれから一緒に歩んでいくのだ。将来的には結婚して、夫婦になって、そして家庭を築く。
そのためには互いの全てを知って、受け止めて。汚い部分も、情けない部分も、幼い部分も。全てすべて、少しずつだけど見せあって。
そして、手を取り合って生きていくのだ。今、私の手を包み込んでくれているこの手を取って。
「が望むのなら、オレはなんだって教えるよ」
「少しずつでいいから、たくさん教えあっていこう?」
「あぁ、そうだな」
赤司くんは頷くと、絡めていた手を持ち上げる。ちゅと音を立てながらそこにキスを落とした。
「あ、赤司くん……っ」
「手が冷たいな」
「それは……」
「緊張しているからか?」
「分かっているなら聞かないでよっ」
悪戯に瞳を細める赤司くんは、いつもより色香を感じられた。それは赤司くんの私室にいるからか、それとも彼が私服を着ているからか。理由は分からないけれど、何度も何度も私の手に唇を触れさせる彼にだんだんと体温が上昇していくのを感じていた。
私の手から顔を上げた赤司くんが、「大袈裟かもしれないが」と念入りに前置きした上で口を開く。
「これからきっと多くの困難がオレたちを待っているだろう。互いのことを知ったが故に、嫌になることもあるかもしれない」
「…………」
「それでも、オレはこの手を離したくない」
「赤司くん……」
「長い間焦がれて、やっと手に入れたんだ。やっとオレに差し出してくれたんだ。だから、逃すつもりはない」
何処か好戦的で、攻撃的な言葉だった。でもそれが嫌に思わないのだから不思議だ。これが惚れた弱みというやつだろうか。
「どんな困難でも、オレはきみのためなら立ち向かえる」
「…………」
「の優しいこの手が冷たくなっているのなら、オレはそれを温めてやりたい」
赤司くんは普段は穏やかだが、時に苛烈だ。特に試合中の彼はその傾向がある。さっき私に見せた攻撃的な様子は、それにとてもよく似ていた。
それでもその苛烈さはすぐになりを潜めて、表情も穏やかなものへと変わる。私の手を両手で丁寧に包み込むと、言葉通り、温めるように力を込めた。
「それが許される唯一でありたい」
ずっと真っ直ぐだった赤司くんの瞳が、僅かに揺らいだ気がした。
私は赤司くんに告白されるまで、彼には不安なことなど一つもないと思っていた。実際、彼はいつも自信に満ち溢れていて、決して間違えることはない。
でも、不安がない人間なんていないのだ。彼だって人間である以上、何かしらの不安があるわけで。そしてその不安が私に関することだと気付けば、思わず私は嬉しくなってしまったのだ。
「どうかずっと、私の唯一でいてください」
瞬間、私は赤司くんの腕の中に納まっていた。
「……ありがとう」
掠れた言葉に、私は赤司くんの背中に腕を回して、彼の服をぎゅっと握ることで答えたのだった。