03
『幸村先輩は勉強熱心ですね』『そうかな。さんともっと話したいと思ったからだよ』
『またそんなこと言って……』
『照れてる?』
『照れてないです』
穏やかな笑みをこちらに向ける幸村先輩は、最近はこうやってよく私の反応を見てからかうようになっていた。そんな彼につい意地を張って、ぷいとそっぽを向いてやる。肩を叩かれたって、絶対にそっちを見てやるもんか。
そんな決意を一人でにしていたのに、こつこつと机を綺麗な指先で叩かれて、思わず振り返ってしまう。
『ごめんね? そんなに拗ねないで』
『いつも同じこと言ってますよ、先輩』
『あれ、そうだっけ?』
大袈裟にとぼけてみせる幸村先輩に思わず吹き出して、そんな私を見た彼はぷっと吹き出した。
こんなやり取りを、もう2週間近く続けている。
***
あの日。忘れてしまったお釣りを渡してもらった日。あのときはお互いに何事もなく、その場で別れた。
けれど、翌日も偶然、院内を散歩していると、同じように散歩をしていた彼が前方からやってきた。先に気づいたのは私で、でもあちらは気づいていなかったようだから、声をかけるのは躊躇われた。どうしようかと迷いながら歩いていると2人の距離はすぐに縮まって、そこでふと顔を上げた幸村先輩と視線があった。あ、と言う彼の声が聞こえた気がした。
『きみは昨日の……』
ぽつりと漏らした幸村先輩の姿を見て、私は反射的に彼の入院服の袖を掴んで引っ張った。えっと驚いた彼を無視して、ぐいぐいと廊下の隅に行く。今思えばなんてことをしたのかと頭を抱えたくなるものだが、まぁこの行動のおかげで今でも先輩とお話ができているのだからイーブンである。
『あの?』
躊躇いがちに口を開いた彼に、急いでポケットから取り出したメモ帳を開いてペンを走らせる。急ぎすぎて字が汚くなってしまったが、読めないものではなかった。
『昨日はお釣り、ありがとうございました。おかげで助かりました』
メモ帳を彼に見せると彼は穏やかに微笑んで──今では私はこの微笑が彼の代名詞だと思っている──、ちょっと貸してくれるかなと言ってから私のメモ帳を受け取った。まぁ、正確にそう言っていたかは分からない。あくまで読唇術である。
『どういたしまして。次からは気をつけなくちゃ駄目だよ?』
美しい彼の容姿に見合った、綺麗な文字だった。こういう人は何でも完璧なのだろうか。
それにしても、
「っ」
二度目の対面で、まるで兄のように諭されてしまい、それが何故か面白くて笑ってしまった。そんな私の様子を疑問に思ったのか、彼はメモ帳に次なる文を紡いでいく。
『何かおかしなこと言ったかな?』
『ごめんなさい、まるでお兄ちゃんだなと思って』
私の返答を見て、幸村先輩は?を少しかく。ごめんね、と口が動いた気がした。
『妹がいるから、もしかしたらその癖かも。気に障った?』
『いいえ。私、前から兄が欲しかったんです』
そんな他愛もない会話をメモ帳を使いながら続けて、メモ帳のページが残り少なくなったところで彼がふと気づいたように何かを書き始めた。どうしたのだろうと、彼が書き終わるのを待つ。次に見せられたメモ帳には、確かに今まで私たちが忘れていたことが書かれていた。
『遅くなったけど、幸村精市です。きみは?』
『です』
『いい名前だね』
息を吐くようにさらりとお世辞を述べてみせる彼は一体幾つなんだろうと疑問を持った。特別年が離れているようには見えない。けれど、私よりは年上に見える。
『さんは中学生?』
『はい、中学2年です』
『あ、惜しい。俺は3年』
『高校生かと思いました、大人びてるから』
よく言われるよとメモ帳に書き記した幸村先輩を見て、ふと一つの仮説が生まれた。もしかしてと思いつつ、メモ帳にその仮説を記していく。
『もしかしてですけど、立海生ですか?』
『そうだよ、どうして分かったの?』
『私も立海生だから』
そして立海で幸村と言ったら、1人有名な人を知っている。友達がきゃあきゃあ言っていたけれど、私は興味がなくて名前しか知らない人。確か難病を患って入院中だと聞いた。
名門テニス部部長の幸村精市。それが、目の前で穏やかに笑っているこの人なのか。
『あぁ、なるほどね』
幸村先輩も立海生という私の言葉を聞いただけで全てを察したらしかった。
『名前しか知らなかったんですけど、予想以上にイケメンさんですね』
『お世辞を言っても何も出ないよ?』
『事実です』
幸村精市と話したと言ったら、友人は何と言うだろう。発狂するどころの騒ぎではないかもしれない。ここにいなくて本当に良かった。
『じゃあ、俺の後輩なのか』
『そうみたいです』
『こんな可愛い後輩は大歓迎だな』
『あ、先輩もお世辞』
『お世辞じゃないよ』
先ほどのやりとりとよく似たやりとりをしてしまって、2人揃って吹き出した。こんなに楽しい会話は、楓以外とは最近していなかった気がする。
『そんな可愛い後輩のさんに相談なんだけど、』
『何ですか?』
『もし良かったら、またこうやって話さない? 昨日に続けて会えたのも何かの縁だと思うし』
幸村先輩からのまさかの提案に、いちにもなく頷く。
『私でよければ』
『さんがいいんだよ』
そして私たちはお互いの連絡先を書いて互いに渡してからその日は解散となったのだ。
***
『あれから2週間なのに、もう不自由なく手話で会話ができてるじゃないですか』
そう。幸村先輩は日常会話で使う手話をたったの2週間もかからずに覚えてしまったのだ。その脅威的な速さに驚愕してしまう。私だって覚えるのに苦労したというのに。
『さんにそう言ってもらえるなら、ちょっとは自信持ってもいいかな』
『ちょっとどころじゃないですって』
美しい指先から紡がれる言葉なき言葉の数々に見惚れてしまうこともしばしばあるのだが、それはどうか許してほしい。私だって興味がなかったとはいえ、その人物が目の前にいるのなら話は別なのである。
『でも、先輩が手話を覚えたいって言ってきたときには驚きました』
『言ったでしょ? それは、』
きみとたくさん話が
したいから
したいから
ストーリーの流れも、結末も、なんなら最後のタイトルや台詞もしっかりと決まってるのに、そこにいくまでのお話が書けない。
(2020.10.05)
(2020.10.05)